平成を駆け抜けたプロロード選手 市川雅敏
新元号が発表されるのに合わせて今日は平成という時代を駆け抜けた市川雅敏さんのプロ生活を振り返ってみたいと思います。
1987年(昭和62年) バブル経済全盛の当時、日本企業はこぞって海外進出を果たしていた。
そんな時代に日本初のプロロードマンとなった市川さんは、ヨーロッパのプロ社会から見れば”よそ者”
市川さんは「自国の選手の椅子をひとつ取った者だったからか、人種差別だったのかは今となっては分からない」と言うが、当時自チームの選手から不当な扱いを受けることもあったという。
80年代中盤から急激に進んだプロロード界の国際化。
コロンビア勢の台頭、アメリカ人初のツール制覇などの流れにあって、地元欧州の選手が”外国人”に対して危機感からくる反感を持っていたのもあったのかもしれない。
当時、台頭する日本企業に対して世間では嫌悪感を示す人たちも少なからずおり反日感情を持っていた選手もいたのかもしれない。
とにもかくもデビューした市川さんは一年目からリエージュ・バストーニュ・リエージュのメンバーに抜擢され、欧州のクラシックを走った初めての日本人となった。
「あれも良くなかったよね。ちょっと目立ちすぎてアイツなんだよ!?ってなっちゃった。」
しかし、そこで「逆に燃えた」という市川さんは努力を重ね1989年(平成元年)ついにリヒテンシュタインでプロ初勝利を遂げる。
「ベルナール・イノーも勝ったことがあるレースでさ。イノーってレースを選ぶ選手だったから、同じレースで勝てたのは嬉しかったよ!」
翌日の新聞にも大きく載り欧州プロの世界で ”日本人ここにあり”ということをアピールしたのであった。
そして1990年栃木県宇都宮で行われた世界選手権。
凱旋帰国になるはずだったそのレースで市川さんを待ち受けていたのは、欧州プロレース界と未成熟だった日本レース界の間で起こるカルチャーショックだった。
続く
写真提供: 市川雅敏氏
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Peaks Coaching Group – Japan
中田尚志