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日本人初の欧州プロ市川雅敏さん 1986年

プロへの階段

“25-26才までにプロになれなかったら、その先チャンスはない。”

すでに25才になっていた市川さんにとって残された時間はそう多くはなかった。

勝つ以外にプロになる方法はない。

当時言われていたのは「エリートアマで4勝すればプロになれる。」

84年のスイス、85年の日本でのレースで手応えを掴んでいた一方で未だ欧州では未勝利だった市川さん。

自転車レースは脚力だけでは勝てない。市川さんをエリートアマチュアで勝てる選手に育てたのはマビックチームの監督アルフレッド・デュポルポン。

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市川さんに戦術を教えた監督 アルフレッド・デュポルポン (c)市川雅敏

チームは前年アリーフの年間チャンピオンに輝いていたステファン・ホッジを中心に動いていた。

翌年KASに行くことが決まっていた彼は全てのチームがマークする存在。

既に市川さんの実力を評価していたデュポルポンは、地図を見せながらアタックのポイントを指示したという。

「みんなホッジをマークしている。お前のことは誰も見てないんだから、思い切ってゴール手前から行ってみろ。」

監督が言ってたし、思い切って行ってみるか?

ホッジをマークする他チームを尻目に市川さんが先行して逃げを打つ。そうすると不思議とアタックは決まった。

もし決まらない場合でも他チームと共にホッジが追いついて来て、そこから展開が出来た。

どちらにしても数的有利はマビックチームにあった。

この作戦は上手くハマりホッジと二人で勝利を量産することになる。

栄光の日々

デュポルポンの指示のもとホッジとの二枚看板で活躍した市川さん。

アマチュア版ツール・ド・スイス総合2位になるなど、順調に成績をあげた彼にプロ入りへの更なるチャンスが訪れる。

7月に開催されるビスカイアはバスク最大のアマチュアレース。

歴代の優勝者はペドロ・デルガド(88年ツール・ド・フランス優勝)など、プロで活躍した選手たち。

第一ステージでアルフレッドのアドバイスを思い出し、ポイント賞争いを終えた集団から一気に飛び出し逃げを決める。

「日本で走ったトラックのポイントレースみたいだな。」

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勝利へのアタック! (c)市川雅敏

反応してきた一名と共に逃げ、最後は独走して優勝。

ステージ優勝すると共にリーダーとなりマイヨ・ジョーヌを着用する。

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ビスカイアでマイヨジョーヌを着用する市川さん (c) 市川雅敏

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ステージ優勝し総合でも1位になったことを伝える新聞 (c)市川雅敏

途中でマイヨジョーヌは手放すも最終順位は2位を獲得。

続くルクセンブルグのレースでは遂に総合優勝。この年、最終的に8勝を手にしエリートアマでの地位を確固たるものにする。

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日本人・市川雅敏の優勝を伝える新聞 (c)市川雅敏

プロチームからの誘い

市川さんの走りは連日新聞に掲載され大きな注目を集めた。

特にビスカイアは多くのプロチームの監督がバカンスがてら観戦に訪れており、これ以上ないアピールの場になった。

結果、フランスのKASとスペインのプロチームから誘いを受ける。

「プロにはなりたいけど、スペイン語は分からないしな〜。 KAS(当時はフランス国籍)はフランス語圏だしホッジも行く。 だったらKASかな。」

いよいよプロ入りが現実化してきた瞬間であった。

プロへの手応え

最終的に8勝を上げエリートアマではトップに立った市川さん。3年前は、プロとのあまりの実力差に打ちひしがれ欧州挑戦を諦めるつもりだった若者が今やプロチームが注目する選手になっていた。とはいえ厳しいプロの世界でアマチュア時代は天才と言われた選手が数年で消えていくのはよくあること。

しかし、この時既にプロでやれる自信はあったと言う。  と言うのもプロアマオープンのレースで当時ツール・ド・フランスでステージ優勝したベアット・ブロイに登りでそれほど遅れることはなかったし、後にアトランタ五輪で優勝するパスカル・リシャールには登りで絶対に負けない自信があったからだ。

1986年は、大きな自信とプロ契約を手に帰国することになった。

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20 May1990  73rd Giro d'Italia Stage 02 : Consilina - Vesuvio ICHIKAWA Masatoshi (JPN) Frank - Toyo, at Vesuvio Photo : Yuzuru SUNADA / Slide / Pro Scan
20 May1990
73rd Giro d’Italia
Stage 02 : Consilina – Vesuvio
ICHIKAWA Masatoshi (JPN) Frank – Toyo, at Vesuvio
Photo : Yuzuru SUNADA / Slide / Pro Scan
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日本人初の欧州プロ市川雅敏さん 1985年 その2

突然の朗報

 

1985年は国内転戦をすることになった市川さん。スギノチームでの日々は士気の高いチームメイトやライバルとの研鑽で充実していたという。

そんな入社して間もない5月のある日、奇跡的なチャンスが転がり込む。

 

“スイスに来ないか?”

 当時日本製品は欧州市場を席巻しており、スイスでも評価が高かった。

スギノも例外ではなくスイスの大手バイクショップ、ゲルバーは直接スギノから大量の製品を買い付けていた。

 

ある日スギノの社員がゲルバーからの注文書にMasatoshi Ichikawaと何やら英語で書いてあるのを見つけた。

 

“日本に居るマサトシ イチカワに伝えて欲しい。来年スイスに来てマビックで走らないかと。”

 

渡された注文書に書かれていたのは前年加入が叶わなかったマビックチームからの伝文だった。

 

マビックチームが取引きのあるゲルバーを通してスギノに市川さん探しを頼んで来たのである。

まさかそのスギノに市川さんが居るとも知らずに。

 

同じスイスながらマビックチームは行ったことのないフランス語圏。

スギノには入社したところだし、まだまだシーズンはこれからという5月。

 

しかし心は決まっていた。「ヨーロッパでプロになりたい。」

市川さんは再び渡欧を決意する。

 

この時、すでに24歳。

「25-26歳にはプロになってないと、もうプロ入りのチャンスは来ない。」と聞かされていた市川さんにとって最後のチャンスになることは間違いなかった。

  

ここからいよいよ日本人初の欧州プロ契約を勝ち取る市川さんの快進撃が始まる。

   

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20 May1990  73rd Giro d'Italia Stage 02 : Consilina - Vesuvio ICHIKAWA Masatoshi (JPN) Frank - Toyo, at Vesuvio Photo : Yuzuru SUNADA / Slide / Pro Scan
20 May1990
73rd Giro d’Italia
Stage 02 : Consilina – Vesuvio
ICHIKAWA Masatoshi (JPN) Frank – Toyo, at Vesuvio
Photo : Yuzuru SUNADA / Slide / Pro Scan
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日本人初の欧州プロ市川雅敏さん 1984年

“「チャンスは2回」”

プロのあまりの速さに前年は面食らった市川さんだったが、ある程度コースも分かり強い選手も分かって来たために翌1984年は少しレースが見えて来ていたという。

 

次なる目標は入賞。

 

どうすれば入賞できるようになるのか?

 後にルームメイトになるステファン・ホッジにアドバイスを求めたところ、返って来た答えはこうだった。

 

「マサ、レース中に勝つチャンスは2回ある。一つはスタート後に早めに決める逃げ(アーリーブレークearly break)、そしてもう一つは後半の勝負を決めるアタック( ウィニング・ブレーク winning break)だ。 2回目に乗り遅れたらもう次はないぞ。」

 

 

ホッジの言葉を振り返ってみると確かに自身が出場したアリーフも殆どがこのパターンで決まっていた。

 

「全てのアタックに反応する必要は無いんだな。優勝候補が行った時に全力でついてみよう。」

 

そう考えると俄然レースが見えてきた。

無駄な動きと勝負を決める動き。

 

優勝候補のアタックにオールアウト覚悟で喰らい付いて行くと逃げに乗れようになっていた。

 

「これがレースか。」

 

それまで日本でアタックをどう決めるか?に主眼を置いていた走りから、展開に乗る走りを学んだことで戦術の幅が広がって行った。

勝てる感触をつかんだシーズン後半、ついにアリーフで4位に入賞する。

 

手応えを掴んだ市川さんは翌年もスイスで走ることを希望しスイスの強豪エリートアマ・マビックに加入を打診する。

しかし、交渉がまとまる前に帰国日を迎えてしまう。

当時はメールもインターネットも無かったので直接会って交渉をするしか無かったが、レース転戦を続けるうちに帰国日になってしまったのだ。

 

欧州での活動は一旦終了となり翌1985年は日本の実業団、スギノチームで国内メインの活動を行うこととなった。

 

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日本のバイクメーカー・ツノダがスポンサーするチームと (c)市川雅敏

 

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