6/30のセミナーにゲストが決定しました!
鉄沢孝一氏です!
鉄沢孝一氏 大学時代から日本のトップ選手として活躍し、大学卒業と同時に市川雅敏氏と共にイタリアに渡る。 その後、オランダで修行。帰国後はアラヤ工業に所属し実業団選手として活躍。 ホイール組の名職人としても知られ、国際大会で数々の栄冠に輝いたアラヤのディスクホイールの殆どは彼の手によるもの。 |
1983年 欧州へ飛び出した二人の若者
市川さんのジロ・デ・イタリアを語る上で欠かせないのは、彼が始めて所属した海外のクラブチーム、ユーロ・メルカートだ。
1983年、市川さんは鉄沢孝一氏と何の情報もないままイタリアへ渡る。
渡欧前に勉強していたとは言え、イタリア語をまだ流暢に話せるわけではなかった市川さんは、ミラノに支店を置く日本のイタリア家具輸入商社トーショクに赴き「日本からレースをしたくて来た。誰かレースに連れて行って欲しい。」旨をイタリア語で書いてもらう。
その紙を持って向かった先は現地の自転車店(コルナゴ・ショップ)。
押しかけ入門で始まった欧州武者修行
店に入り浸り二人はレース関係者の来店を何日も待っていた。
朝のトレーニング後、夕方、閉店前・・・。多い時は一日4回も店を訪れたという。
「だってレースに出れないんだから、コッチも必死だったんだよ!」市川さんは当時を回想して笑う。
そこで、たまたま来店した地元クラブチームの会長ジョバンニからレースに連れて行ってもらう約束をとりつける。
3ヶ月もレースを走れなかった二人は、水を得た魚のようにレースを走る。
二人のレースを見て会長は大喜び。自身のチーム、ユーロ・メルカートに入会を許可する。
「俺たちそんな変なレースするわけじゃないからさ。イタリアの第二カテゴリーぐらいなら結構走れるわけよ。それ見て会長が喜んじゃってさ。ライセンスやジャージの問題もあったんだけど解決して走れるようにしてくれたの。レース中に補給くれる選手なんかも居たりしてさ。”あ〜仲良くなったらイタリア人も結構良い奴が多いじゃん”って思ったね。」
ここから彼はプロへの道を歩きはじめる。
1990年 ジロ・デ・イタリア
そして1990年、プロ四年目を迎えた市川さんはジロ・デ・イタリア出場する。
総合35位前後を走っていた市川さんだが、ジロ3週目を迎えて突如不調に見舞われる。
運の悪いことにその日はドロミテ山脈で行われるクイーンステージ。
スタートして3kmも走らないうちに「今日はダメだ!」と悟る。どうにも足に力が入らないのだ。たまたまイタリアチームに所属する総合2位のジョアキム・ハルプチョクも遅れる。
これが市川さんには幸いする。
ハルプチョクのチーム全体が待ってくれたこと。偶然レースが活性化しなかった幸運もあり市川さんはハルプチョクに乗っかって集団に復帰する。
しかし、その後もどうにも体は動かず3つ目の峠で一気に遅れてしまう。
2週間以上走って総合で45分程度の遅れだった市川さんだが、その時点で30分以上遅れてしまう。
当時登りが全く登れなかったマリオ・チポリーニと一緒の集団になったとき「今日で終わったな」とリタイアさえ頭をよぎったという。
しかし、レースの山場ポルドイ峠を登っている時、突如沿道から「ダイ!マサトシ!(頑張れマサトシ!)」の声が聞こえた。
クイーンステージで市川選手を待っていてくれたのはユーロ・メルカートのメンバーだった。
鉄沢氏には当時のエピソードを語って頂きます。
お楽しみに!
日本人初の欧州プロ市川雅敏さん 1983年
”プロになる気はなかった。いや、なれないと思っていた。”