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平成を駆け抜けたプロロード選手 市川雅敏 その2

1990年 世界選手権 宇都宮大会 

「最悪だったね。」

 

市川さんは当時を振り返ってつぶやく。

 

「スタート地点でまだウダウダ言われたら走るの止めようと思ってた。」

 

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(1)自分たちの時代
1990年は自身の好調や同年代の選手が活躍しだしたのを見て「自分たちの時代が来た」と感じていたという。プロ生活は4年目。29才になっていた。

その年の8月に宇都宮で世界選手権が開催された。

 

ジロを総合50位で終えた市川さんにとってこの大会はキャリア最高の時期を飾る凱旋帰国のレースになるはずだった。

 

「自分が選手をやっている間に日本に世界選手権が来ることはもう無いと思う。頑張りたいね!」

涼しい北海道で調整した市川さんはTVインタビューにそう答えている。

 

(2)日本と欧州の間で
アジアで初めての世界選手権開催とあって主催者は多くの式典やパーティを準備し、市川さんはその場に頻繁に駆り出された。

プロロードマンの体調を考慮してくれるようなことはなく、レースを前に練習にさえ行けずにコンディションは落ちる一方。しかし、スタッフがスケジュール調整をしてくれるわけでもなければ直接交渉する手立てもない。

自国開催の世界選手権で良い走りがしたい市川さんのストレスは溜まる一方だった。

 

「プロロード選手の練習時間なんて誰も分かってないわけよ。競輪のプロも居たけど彼らは6時間も乗らないしね。」

プロロードの世界を理解していない周囲に全てを一から説明しなければならないストレスから市川さんは孤独感を深めていく。

 

追い打ちをかけるようにストレスを与えたのは「ウエア問題」。

日本チームのウエアは当時ミズノがスポンサーしており、上下ミズノ製ウエアを着用することを求められた。

 

「プロはさ、下は所属チームのレーパンで上はナショナルチームのジャージを着るってのが当然じゃない。でもスポンサーなんだから上下着てくれって言うんだよね。メチャクチャだよね。普段給料もらっているのはフランク(所属チーム)なんだからさ。」

 

精神的なストレスが解消したとしても身体的な問題があった。
レーサーパンツを変えることでサドルの高さが変わってしまい本来のポジションが取れない。
それはコンマ・ミリ単位でサドルの高さを調整していた市川さんにとって、レースでパフォーマンスを発揮できなくなることを意味していた。

 

しかし市川さんが最もストレスを感じたのは、会社側と直接交渉出来ないことだった。

 

「会社の人と直接話せないんだもん。チームの関係者が”ミズノがそう言っています”って言ったってラチが開かないよね。」

 

ヨーロッパでは代理人を通さず常に一人でチームの代表と交渉してきた市川さんにとって違和感を覚えるのは当然だった。

本番を前に欧州では当然とされている慣習が自国では理解されない歯痒さを抱えることになる。
渡航当初に経験してきた欧州レース文化のカルチャーショックは、今や体の一部になり自身の価値観になっていた。

スケジュール調整にしろウエアの問題にしろ交渉する担当者さえハッキリしない日本のシステムに市川さんはストレスを募らせた。

 

一方ミズノ側にしてみればアマチュアが上下自社製品を着用するのに、プロロードの選手だけが他社製品のレーサーパンツを着るというのは許容出来ない行動だった。

最も注目度の高いプロロードでエースの市川さんが自社製品を着用しないのは彼らにしてみれば逆宣伝になってしまう。それだけは避けたかったのである。

 

結果的に話し合いは平行線。

 

当日まで全くレースに集中出来ない状態が続き、スタート前でさえまだ話し合いは続いた。

 

「スタート前にまだ(話し合いを)やってんの。俺たち今から260km走るの分かってんの?って感じだよね」

 

結論は出ないまま市川さんは普段どおり所属チームのレーサーパンツを着用してスタート地点につく。

 

「チーム関係者に”はいはい分かりました”って言いながら、フランクのレーパンで準備した。だって責任者と話せないんだから。発言に責任取る必要ないでしょ。」

 

「スタート地点でまだウダウダ言われたら、走るの止めようと思ってた。」

 

(3)世界選手権プロロード
混乱の中でスタートした世界選だが市川さんは沿道の観客の多さに驚いたという。

 

「自分がヨーロッパで走ってるなんて誰も知らないと思ってたし、日本にこんなにもプロロードのファンが居たんだって。お客さんは本当多かったよね。」

前日までのゴタゴタですっかりコンディションは落ちていたが完走。

 

「集団から千切れて止めようかな〜って思ってたら、ロミンガーが”おいマサ、ここで止めたら暴動が起きるぞ。一緒に走ってやるから最後まで行こう。”って言うんだよ。プロって勝負に絡めなかったらさっさと止めるんだけど、その日だけは最後まで走ったね」

 

多くのレースを共にしたトニー・ロミンガー、ヨルグ・ミューラー、ロルフ・ヤールマンのスイス勢と日本の三浦恭資選手と共にフィニッシュ。

フィニッシュラインではスイス勢に前を譲り感謝の意を表したという。

こうして日本初の世界選手権が幕を閉じた。

 

続く
#市川雅敏

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Peaks Coaching Group – Japan
中田尚志

takashi( @ ) peakscoachinggroup.com

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平成を駆け抜けたプロロード選手 市川雅敏

平成を駆け抜けたプロロード選手 市川雅敏

新元号が発表されるのに合わせて今日は平成という時代を駆け抜けた市川雅敏さんのプロ生活を振り返ってみたいと思います。

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1987年(昭和62年) バブル経済全盛の当時、日本企業はこぞって海外進出を果たしていた。

そんな時代に日本初のプロロードマンとなった市川さんは、ヨーロッパのプロ社会から見れば”よそ者”

 

市川さんは「自国の選手の椅子をひとつ取った者だったからか、人種差別だったのかは今となっては分からない」と言うが、当時自チームの選手から不当な扱いを受けることもあったという。

 

80年代中盤から急激に進んだプロロード界の国際化。
コロンビア勢の台頭、アメリカ人初のツール制覇などの流れにあって、地元欧州の選手が”外国人”に対して危機感からくる反感を持っていたのもあったのかもしれない。

当時、台頭する日本企業に対して世間では嫌悪感を示す人たちも少なからずおり反日感情を持っていた選手もいたのかもしれない。

 

とにもかくもデビューした市川さんは一年目からリエージュ・バストーニュ・リエージュのメンバーに抜擢され、欧州のクラシックを走った初めての日本人となった。

 

「あれも良くなかったよね。ちょっと目立ちすぎてアイツなんだよ!?ってなっちゃった。」

 

しかし、そこで「逆に燃えた」という市川さんは努力を重ね1989年(平成元年)ついにリヒテンシュタインでプロ初勝利を遂げる。

 

「ベルナール・イノーも勝ったことがあるレースでさ。イノーってレースを選ぶ選手だったから、同じレースで勝てたのは嬉しかったよ!」

 

翌日の新聞にも大きく載り欧州プロの世界で ”日本人ここにあり”ということをアピールしたのであった。

そして1990年栃木県宇都宮で行われた世界選手権。

凱旋帰国になるはずだったそのレースで市川さんを待ち受けていたのは、欧州プロレース界と未成熟だった日本レース界の間で起こるカルチャーショックだった。

 

 

続く

#市川雅敏

写真提供: 市川雅敏氏

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Peaks Coaching Group – Japan
中田尚志

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[機材] ローラン・フィニョンの悲劇から学ぶこと

カーボン、チタン。今も昔も軽量パーツは自転車マニアの憧れです。

 

写真は1982年パリ〜ツール(当時ブロワ〜シャビル)。

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一人逃げを決め勝利を目前にしていたローラン・フィニョンのチタン製BBシャフトがダンシング中に突然折れて落車。勝利を逃しました。

落車のショックで立ち上がれないフィニョンの傍らには、取れたクランクとペダルが転がっています。

この7年後、ツール・ド・フランスの最終日TT(その年はシャンゼリゼがITT)、フィニョンはDHバーを使ったグレッグ・レモンに敗れ8秒差で総合優勝を逃しました。

 

あまりに前衛的なパーツ、いわゆるキワモノパーツを使って勝利を逃した例は枚挙にいとまがありません。

また一方で最新の機材導入をためらった為に勝利を逃した例もあります。

 

新しい機材を投入する時は、それが本当に自身の走りを変えてくれるのか?リスクはないのか?そして何より投資に見合う価値があるのかをアマチュアの場合はよく考える必要があります。

レーサーにとってお勧めの判断基準は「順位を変えるかどうか?」です。

2位を1位に変えてくれるなら採用。そうでなければ不採用です。

 

そう考えると「これがなかったら勝てない」というパーツは案外少ないと思います。

 

ここ50年で順位を変える力をもった機材はディスクホイール、DHバー、ディープリム、カーボンフレーム、STIレバー、TTフレームといったところでしょうか?

 

私は過剰に機材に投資するのはお勧めしません。

自転車レースは機材ではなくて足で決まるからです。
程度はあれど足9割、機材1割ぐらいだと思います。

 

特に実績のないパーツを投入する場合は、それによって得るメリットとリスクを天秤にかける必要があると思います。

 

 

Peaks Coaching Group-Japan
中田尚志

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