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[市川雅敏] 最高のチームの作り方 その1

ツール・ド・フランスに向けて各チームがメンバーを発表する時期になりました。

メンバーの選考はどのチームにとっても頭を悩ます問題です。スター揃いのチームでは総合を狙うのか?ステージをメインに狙うチーム構成にするのか?総合を狙うチームにするにしても山岳でのアシストと平地での風よけの人数構成をどうするのか? ベテランを起用し確実性を狙うのか?勢いのある若手を使うのか?など悩みは尽きません。

最強スプリンターの一人であるケイレブ・イワンが、総合を狙うアダム・イエーツを中心に考えたミチェルトン・スコットのメンバーから外れたりと、強い選手が必ずメンバーに入れるとは限らず、どこで結果を出したいかを考えるチームの方針、監督の采配によってメンバーは決まります。

チームの思惑によって悲喜こもごもが起こるのがこの時期です。

メンバー選考にしこりを残してはチームの士気に関わりますし、何より成績を出すことが出来ません。全員が一つになってレースに向かえるチームを作ること。またそういう雰囲気を作るのも監督の能力のひとつです。

そこで今日は市川雅敏さんに学ぶ最高のチームの作り方をご紹介しましょう!

監督 ダニエル・ギジガーの采配

1990年 プロ4年目を迎えた市川さんはスイスを拠点にしたフランク・トーヨーに移籍。

ここで有能な監督に出会い、最高のチーム作りを学んだといいます。

フランク・トーヨーで采配をふるうのは、前年引退し監督に就任したダニエル・ギジガー。

元祖TTスペシャリストとしてエアロスキンスーツ、内蔵ワイヤのフレームをプロの世界に持ち込んだこの男は、緻密なトレーニングプログラムとオーガナイズされたチーム体制を構築することで、最高のチームを作り上げたと言います。

市川さんがプロ生活の中で最高のチームだったと評するフランク・トーヨーのチーム作り。

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“「やるぞ!」チームの士気は最高潮 ジロのスタート地点に並ぶ市川雅敏さん”

最高のチームとは?

プロ選手は勝つことで評価され、富と名声を手にする。

そこで監督は勝てるチーム、賞金を獲得出来るチームづくりを目指すわけだが、レースは一人で勝てるわけではない。

勝ちを狙うエースがいて、エースの勝利のために尽くすアシストが居てこそチームに勝利が転がり込む。

そのためには各選手が自身の役割を理解しチームメートの役割に敬意を払う必要がある。

戦術がブレるような自分勝手な走りをする選手が居ては勝てないし、またエースは絶対的な信頼を得ていなくてはならない。

メンバーが一丸となって勝利に向かえるのが、最高のチームだというわけだ。

プロチームの力学

プロで走るということはお金を稼ぐために走るということ。

通常プロ選手は契約にもとづいた給料の他にレースで獲得した賞金をチームで分配することで副収入を得る。

獲得賞金が増えればメンバーの士気は上がり、さらなる勝利の為に自ずとチームの結束は固くなる。

一方で活躍できず賞金が得られなければメンバーの士気は下がり、各選手は来期の移籍を考えて自身の成績を求めた自分勝手な行動に出やすくなる。

エースがアシストを信頼し、アシスト選手は全力でエースを助けたくなる心理に持って行くことがプロチームのスタッフには要求される。

ダニエル・ギジガーのアプローチ

市川さんが前年ベルギーで所属していたHITACHIは、エースのクリケリオン(’84世界チャンピオン)他クラシックハンターが揃うビッグ・チームだったが、チームオーガナイズはめちゃくちゃで、メンバー選考は常に場当たり的。

市川さんは、ツール・ド・フランスのスタート地点に招集されながら、数日前に選考から外れたこともあったという。

「誰がツールに行くんだよ!」メンバー選考は監督のサジ加減ひとつ。

場当たり的なメンバー選抜に関してチーム内に遺恨が残り選手はストレスにさらされる。

選考されるためにチーム内では常に足の引っ張り合いがあり、自ずとチームの士気は下がった。

突如メンバーから外されたと思えば、突然レースに招集されることもある。そのような中でレースに向けての綿密なコンディション作りなど不可能だった。

一方フランク・トーヨーは小さいチームながらギジガーの指揮の元、全てがオーガナイズされていた。

シーズンが始まる前にギジガーは各選手のレーススケジュールに見合ったトレーニングプログラムを作成したという。

“ギジガーが市川選手に与えたトレーニングプログラムの一部”

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市川さんに与えられたプログラムは春先イタリアのライグエリアで始まり、ティレーノ・アドリアティコで調子を上げ、ツール・ド・ロマンディでジロを走れるコンディションを作っておくこと。

同じくメンバー入りを目指すカーリン・カールにはジロの前哨戦ジロ・デル・トレンティーノ(現ツアー・オブ・ジ・アルプス)でジロを走れるコンディションを作っておくことが求められた。

プロはレースによって出場メンバーが常に変わるし、たとえ同じレースに出走したとしても選手によって与えられる役割が異なるので順位だけではジロのメンバーの選考をすることは出来ない。

そこで似通った脚質のメンバーを異なるレースに出して、それぞれの走力を見て選考しようというわけだ。

ギジガーはこのプログラムをチーム内で情報共有し、市川さんの選考はロマンディ、カールはトレンティーノであることを周知した。

次回に続く

ーー

Abenova presents 市川雅敏氏 夕食会

市川雅敏さんから学ぶプロレース観戦術

2018/6/30(土) 18:00~2018/6/30(土) 21:00

スポーツサイクル プロショップ アベノバ

お申込みはコチラ

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01fxpkzmmx82.html

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[イベント] 市川雅敏さんと夕食を囲もう!

プロから学ぶプロレース観戦術

 

6/30(土)のセミナー後、市川さんの解説で欧州プロレースを観戦する会を開催します。

 

経験豊かな氏の知見に基づく解説をアベノバ2Fのサロンで食事をしながら楽しみましょう!

 

自身が出場されたジロ・デ・イタリア、同年代に走っていたブーニョ、キアプッチ、インデュラインの印象。

解説者時代のパンターニ、ウルリッヒ、ランス・アームストロング….。そして現在のロードレース。

欧州に飛び込み実体験してきたロードレースを語って頂きます。

 

(1)日時 6月30日PM6:00-8:00

(2)場所 アベノバ 2Fサロン

(3)先行割引
購入時に下記のコードを入力すると1,000円割引でご参加頂けます。
割引コード: MASASET-1000
(人数制限あり)

(4)お申し込みページ

Abenova presents 市川雅敏氏 夕食会

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01fxpkzmmx82.html

 

#市川雅敏

 

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6/30の市川雅敏 x PCG-Japanセミナーゲスト決定!

6/30のセミナーにゲストが決定しました!
鉄沢孝一氏です!

 

鉄沢孝一氏

大学時代から日本のトップ選手として活躍し、大学卒業と同時に市川雅敏氏と共にイタリアに渡る。

その後、オランダで修行。帰国後はアラヤ工業に所属し実業団選手として活躍。

ホイール組の名職人としても知られ、国際大会で数々の栄冠に輝いたアラヤのディスクホイールの殆どは彼の手によるもの。

 

1983年 欧州へ飛び出した二人の若者

市川さんのジロ・デ・イタリアを語る上で欠かせないのは、彼が始めて所属した海外のクラブチーム、ユーロ・メルカートだ。

 

1983年、市川さんは鉄沢孝一氏と何の情報もないままイタリアへ渡る。

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渡欧前に勉強していたとは言え、イタリア語をまだ流暢に話せるわけではなかった市川さんは、ミラノに支店を置く日本のイタリア家具輸入商社トーショクに赴き「日本からレースをしたくて来た。誰かレースに連れて行って欲しい。」旨をイタリア語で書いてもらう。

 

その紙を持って向かった先は現地の自転車店(コルナゴ・ショップ)。

 

押しかけ入門で始まった欧州武者修行

店に入り浸り二人はレース関係者の来店を何日も待っていた。

朝のトレーニング後、夕方、閉店前・・・。多い時は一日4回も店を訪れたという。

 

「だってレースに出れないんだから、コッチも必死だったんだよ!」市川さんは当時を回想して笑う。

 

そこで、たまたま来店した地元クラブチームの会長ジョバンニからレースに連れて行ってもらう約束をとりつける。

3ヶ月もレースを走れなかった二人は、水を得た魚のようにレースを走る。

 

二人のレースを見て会長は大喜び。自身のチーム、ユーロ・メルカートに入会を許可する。

 

「俺たちそんな変なレースするわけじゃないからさ。イタリアの第二カテゴリーぐらいなら結構走れるわけよ。それ見て会長が喜んじゃってさ。ライセンスやジャージの問題もあったんだけど解決して走れるようにしてくれたの。レース中に補給くれる選手なんかも居たりしてさ。”あ〜仲良くなったらイタリア人も結構良い奴が多いじゃん”って思ったね。」

 

ここから彼はプロへの道を歩きはじめる。

 

1990年 ジロ・デ・イタリア

そして1990年、プロ四年目を迎えた市川さんはジロ・デ・イタリア出場する。

 

総合35位前後を走っていた市川さんだが、ジロ3週目を迎えて突如不調に見舞われる。

運の悪いことにその日はドロミテ山脈で行われるクイーンステージ。

スタートして3kmも走らないうちに「今日はダメだ!」と悟る。どうにも足に力が入らないのだ。たまたまイタリアチームに所属する総合2位のジョアキム・ハルプチョクも遅れる。

これが市川さんには幸いする。

ハルプチョクのチーム全体が待ってくれたこと。偶然レースが活性化しなかった幸運もあり市川さんはハルプチョクに乗っかって集団に復帰する。

 

しかし、その後もどうにも体は動かず3つ目の峠で一気に遅れてしまう。

2週間以上走って総合で45分程度の遅れだった市川さんだが、その時点で30分以上遅れてしまう。

 

当時登りが全く登れなかったマリオ・チポリーニと一緒の集団になったとき「今日で終わったな」とリタイアさえ頭をよぎったという。

 

しかし、レースの山場ポルドイ峠を登っている時、突如沿道から「ダイ!マサトシ!(頑張れマサトシ!)」の声が聞こえた。

クイーンステージで市川選手を待っていてくれたのはユーロ・メルカートのメンバーだった。

 

鉄沢氏には当時のエピソードを語って頂きます。

お楽しみに!

 

日本人初の欧州プロ市川雅敏さん 1983年
”プロになる気はなかった。いや、なれないと思っていた。”

http://www.peakscoachinggroup.jp/blog/20180329063028.html