1987年 アジアで初めてプロのロード選手となった市川雅敏さん。
当時から新人プロに与えられる契約は2年と決められていた。プロの世界に適応する時間を与え、若い芽を潰さぬための措置だ。
しかし、所属チームのヒタチが市川さんと交わした契約は1年。
本来は規約違反だがヒタチにも言い分はあった。プロが契約するには所属車連発行の国際ライセンスが必要である。
しかし、市川さんにそれは発行されていなかった。
「日本のプロといえば競輪選手。そもそも国際ライセンス自体の準備がなかった。通常、国際ライセンスはUCIが毎年規定の色の用紙を使って発行するのがルール。でも連盟が急遽準備したものはそうじゃなかった。」
チームとしても正式な国際ライセンスを持たない者と2年契約するわけには行かなかった。
その結果、市川さんはプロデビューした年に引退の危機に瀕することになってしまった。
「チームを訴えたら、もしかしたら2年契約を取れたのかもしれないけど、足で証明したかった。プロ入りしてそこそこは走れてたけど、世界選が決め手になったよね」
オーストリア・ウィーンで行われた世界選手権。新人プロながら市川さんは雨の中276kmを走りきる。
ラスト2周までレースは決まらず60人程度にまで絞られた先頭集団に新人の市川さんは残った。
優勝者の出る集団に最終盤まで残ったことは各チームの監督の目に留まった。
結果的に優勝したステファン・ロッシュから遅れること40秒。集団ゴールでの43位だった。
ペドロ・デルガド、ローラン・フィニョン、シャーリー・モテもリタイアするような過酷なレースだった。
ここでの走りが評価され、市川さんは次年度の契約を勝ち取った。
Peaks Coaching Group - Japan
中田尚志
ピークス・コーチング・グループではパワーデータを元にしたコーチングを行っています。
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